貧困リスク
貧困に陥った人を助けたい・・・純粋にその想いを強くしている人たちがいます。
しかし問題なのは支援される側の人たち。
面倒くさいパーソナリティの人が多く、集団の中で阻害されがちになります。
そうすると、更なる貧困リスクを高める結果になってしまいます。


シングルマザー、家を買う [ 吉田可奈 ]

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つらい経験をした人ほど貧困リスクが高まる

 第1に、貧困をバックグラウンドにした虐待や育児放棄などの過酷な生育環境は、「非定型発達者」を生む。

 第2に、その非定型発達者の中には社会的排除を受けがちなパーソナリティがあり、結果として彼らの貧困リスクは高く、そこから抜け出しづらい。

 第3に、そんな環境を要因とした高い貧困リスクを抱える者たちには、脳卒中者へのリハビリ医療を発展させたような「脳の発達支援的なケア」が効力を発するのではないか。

 もちろん貧困リスクの高い者には成育環境以前に生得的(先天的)な発達障害や精神・知的な障害のある者も多いが、だが上記のようなアプローチは、成人後の暴力被害のある者や、失職や職場いじめやブラック企業勤務といった心的外傷を伴うようなトラウマ経験のある者たちに、その後の貧困ケースが多いことの裏付けと、支援へのヒントを含んでいる。

 幼少期であれ成人後であれ、つらい思いをした者ほど、その後の貧困リスクが高まる。これはその「被害経験」に対してのケアがないから。見てわかる外科的な外傷以外の、見てわからない心理的(脳機能的)外傷にケアがないという残酷な現実のもたらした結果だ。

 では、彼らに最適なケアとは、何だろうか。「発達支援的ケア」などと提言をしてみたが、ここで言っておきながら引っかかる部分がある。「社会的排除を招きがちなパーソナリティ」とは、何なのか。そもそもその排除は排除される側に問題があるのか、する側に問題があるのか。そして、そのパーソナリティは「矯正」しなければならないものなのかだ。

 確かに本連載でもたびたび触れているとおり、貧困の当事者はえてして面倒くさいパーソナリティの人が多く、集団の中で阻害されがちなことが、一層その貧困リスクを高めているのは支援の現場で誰もが感じている事実だし、僕の大嫌いな言葉に「困難ケース」(支援困難事例)というものもある。要するに支援しようにも当事者側のパーソナリティに問題が大きすぎて支援者が対処しづらいケースだ。

 僕がこの困難ケースという言葉にイラっとくるのは、その困難とは支援者が当事者を「支援しやすいパターン」に落とし込めないという困難で、この言葉を使った時点で支援者は当事者の「面倒くささ」に敗北した感じを受けるからだ。

 こんな思索を深めていると、脳裏に浮かんでくるかつての取材対象者の言葉がある。

 「やっぱりね……。ぶっちゃけ言ったらそのね。あたしは……“こっち側”が、楽なんだ~~~って、あの。そう思っちゃったんですよお」

 句読点が不自然でやたらと3点リーダー(……)が多いのは、この言葉を発した女性の口調の間延びっぷりを再現した結果。この女性、元家出少女でシングルマザーでキャバ嬢だった春菜さんの第1印象は、「ザッツ天然」だった。

出産前後から彼氏のDVが始まった

 3歳離れた兄と2人で実父方の祖母の家(しかもシングルマザーの叔母家族と同居)に預けられるという複雑な環境で育つも、この実兄や同居する従姉妹からの暴力に耐えかねて16歳で家出をしたという春菜さん。家出先は祖母の家に近い地方都市だったが、その家出生活で知り合ったスカウトの男と同棲し、年確(年齢確認)をごまかして潜り込んだデリヘルで働きながら18歳で未婚のまま妊娠出産した。なお、出産前後からスカウトの彼氏のDVがあった。

 初めて取材をした段階ではこのDV彼氏とまだ一緒に暮らしていて、21歳で東京近郊の大衆キャバクラに勤めていたが、最も印象が強かったのは、その過酷な生い立ちを感じさせない穏やかな、異常と思えるほど穏やかなパーソナリティだった。

 つねにほわっと微笑んでいて、会話のペースは一般人の半分どころか4分の1ぐらい。すこし知的な問題があるのではないかと思ったし、育った祖母の家で兄や従姉妹からいじめを受けたのもこの猛烈な鈍くささが原因なのかと思いきや、mixiの日記にアップされる近況報告は意外にウイットに富んでいて語彙も豊かで、ちょっと辛辣でもあり、天然風なのはキャバ嬢として作った接客パーソナリティなのかと疑ってしまうような、春名さんはそんな子だった。

 そんな春名さんから冒頭の「こっち側が楽なんだ~」発言を受けたのは、初回取材から3年後のこと。相も変わらずの天然トーンな口調だったが、実はこの3年間の間に春名さんの人生は激変していた。

 看護師を目指して大検取得して看護大学に入るため、DV彼氏の下を脱出。元客の20歳年上の予備校講師と結婚し、通信制高校にも入学した。この脱出の際に、DV彼氏の大事にしていたゲーム機類を全部ユニットバスの浴槽で水浸しにした画像をmixiにアップしたのは爆笑もので、僕も思わずその画像を保存してしまったものだ。

 だがなんと春名さん、たった3年でこの予備校講師の夫と離婚して、かのDV彼氏と元サヤに戻り、再びキャバ嬢になってしまった。それでくだんの発言である。

 「やっぱりね……。ぶっちゃけ言ったらそのね。あたしは……“こっち側”が、楽なんだ~~~って、あの。そう思っちゃったんですよお。旦那はね。優しかったですよ。頭いい人だし、あたしの生い立ちとか元デリ嬢だったこととかも、何も文句言わないし、聞いてくることもなかったけど、何か旦那の住んでる世界ではあたしは独りぼっちなんだって思っちゃったんです。だいたい言ってることは旦那が正しいし、あたしを責めることはなかったんだけど、正しいことが正しいってワケじゃないってことを旦那はわかってくれなくて、たぶん一生かけてもその溝は埋まらないって思っちゃったら、寂しくて寂しくて、仲間のところに戻りたいなあって、それで飛び出してきちゃった」

 余分な句読点や3点リーダーは省かせてもらったが、この禅問答のような理由で、春名さんは夫の下を飛び出してきて、元の世界に戻って来てしまったのだ。

 「具体的にどんなすれ違いがつらかったの? 子育てとか将来の方針とか?」

 「いやあ……家具の配置とか? 私服の色とか?」

 いやまて、家具の配置で、自分の夢を実現させてくれる夫を捨ててDV彼氏と元サヤなのか!? もちろん家具の配置だけではない何かがあったのだとは思う。けれど、こんな春名さんの言葉を聞いて、どうしてだろう。面倒くさい人たちの取材を続けてきた僕には、彼女の言葉がとてつもない説得力を持って迫ってくるのだ。

なぜトラブルまみれの人生に戻るのか

 春名さんは、生育環境からくる非定型発達者だったように思う。だが、これまでの取材でも、支援者さんとの情報交換の中でも、こうしたトラブルまみれの生育環境に育ってトラブルまみれな人生を送っている彼ら彼女らは、そのトラブルのない人生に踏み出しても元の世界に戻ってきてしまうということが、あまりにも多い。

 春名さんにとって、かの予備校講師の夫は私的な支援者で理解者で、彼女をその貧困の連鎖から救い出してくれる存在だったかもしれない。が、彼女はその可能性を振り切って元の世界に戻ってきた。

 なぜだろう。ここで突きつけられる現実が、「非定型発達者は非定型発達者同士のコミュニティの中にいるかぎり、比較的高いQOL(生活の質)を感じながら生きることができる」ことである。

 これは取材活動の中でも常々感じてきたことで、たとえば虐待サバイバーの風俗嬢なら虐待サバイバーの風俗嬢の当事者コミュニティが居心地がいい。男の子ならいわゆる言語の延長線上に暴力があるようなアウトローコミュニティが、案外スッとなじめる。たとえそこが裏切りに満ちていたり、被害者になりがちだったり、その後の貧困リスクが非常に高い世界だったとしても、そこで得られるQOLは「そこから正常(?)な世界に向かう」人々のQOLより高いのだ。

 実はこのことは、これまで僕自身が著作の中で何度も書いてきた「支援者が当事者とまったく別の方向を見ている」という指摘の実例でもある。

 たとえば生育環境に貧困や育児放棄や虐待があって、「避難的」な家出生活から売春の世界に入った少女たち。彼女たちにとって最も受けたくない支援とは、何とか自分の売春という稼ぎで得た自由を奪われ、それまで何度もトラブルを起こし対立してきたかもしれない地元の児童相談所に送致されたり、親元や抜け出してきた児童養護施設などに戻されるという支援だ。彼女らにとって、路上の売春コミュニティという最低で劣悪で危険な環境は、実はそれなりのQOLを彼女たちに与えている。

パーソナリティに問題
 だが彼女らが「保護補導」された後の支援は、まずほぼすべてが上記のような彼女らのQOLを奪ったうえでの安全だったりする。それはまあ、少女らは逃げるだろうし、地下へ地下へと潜って行くのは当たり前の話なのだ。

 潜った結果、将来の貧困や苦しさがあり、そんな彼女らの子どもへの貧困連鎖もまた猛烈な濃度を持つとしても、その場のQOLを奪う支援は支援ではない。そう僕は訴え続けてきた。

 そして実は同じことは、現状のあらゆる貧困者・困窮者支援の現場でも言えることだと思う。

「進学支援」は子どものQOLに直結しない

 たとえば子どもの貧困がようやく国の問題として考えられるようになって、それではということで「進学支援」が盛んに議論されている。だがそれは当事者の子どものQOLにはまったく直結しない。確かに、受けたいのに教育を受けられないという悲惨はあってはならない。明治以降、女性や農村の子どもにもあまねく教育を広め、世界有数の識字率を誇る日本の方針は、崇高だったと思う。

 だが昨今、そもそも大卒者の貧困さえこんなにも多い中で、勉強をすれば貧困の連鎖から抜け出せるというのは幻想だし、むしろ返済義務のある奨学金を過剰に抱えることはリスクでしかない。

 返済不要ならいいのかといえば、そうでもない。進学支援で貧困から抜け出そうというのは、そもそも勉強が苦手な子にとっての支援にはならず、救われるのは勉強が得意な子だけ。これは多くの子どもの体を鍛えて「オリンピック選手になってご飯を食べよう!」みたいだ。生まれつき身体が弱くて、選手に育たない子はどうする。彼らにとってそんな支援はQOL以前の問題。必要なのは、足が遅い子も頭の悪い子も、働いて食べられる支援だろう。

 こうした当事者と支援者のすれ違いは、本当にあきれるほどどこにでも転がっている。

 僕の執筆活動の範疇でも、セックスワークに被害者的な立場で従事している女性と、セックスワーカーの社会化や環境改善を目指す人たちのズレとか(随分改善傾向だけど)、同じく被害者的セックスワーカーの声だけピックアップしてしまう支援者とか、生活保護者にケアではなく就業支援を勧める人たちとか。この連載の端緒であった、貧困者の可視化をしたいと思うメディア従事者もまた同様だ。

 どの支援者も当事者のためになろうという善意で動いているし、温かく有能な人たちであるはずが、すれ違ったり、支援者同士で対立をしたり、当事者とまで対立してしまったり、そんな混乱の中で論点がまったく別のところにぶっ飛んで、困窮者支援のはずが政治的運動になっちゃったり。結局、いちばん大事にしなければならないはずの当事者のQOLが置いてけぼりになったりしている。

 そこで本記事の頭の提議に戻って言葉を言い換えるなら、非定型発達者を定型発達になるように「矯正」することが、そもそも非定型発達者のQOL向上につながるのだろうか? それは押し付けだし、そもそも非定型発達者に対する排除傾向が強い日本社会に問題があるのではないかということだ。

 これは少し論が走りすぎな感じもするが、実は僕が取材で「明らかに日本社会ではうまく溶け込めない」と思う非定型発達な元子どもの貧困者にけっこうありがちなのが、「外国人」だとか「帰国子女」的なパーソナリティだ。極端な個人主義や自己主張とか、約束(特に時間)に対する認識の低さや、マウンティングコミュニケーションに偏りがちなところだとか。

 こんな彼らは日本社会ではうまいこと働けないかもしれないが、案外、米国などに行ったら没個性なパーソナリティで普通に働けてしまうのではないかと思うことも多い。

 とはいえ、そうした日本の社会側に多様性を開いていく、本来の意味でのダイバーシティ的なものだけに頼るのは、困窮者支援の施策としては目標が遠大すぎるし、むしろ現状の、特に若者社会においてはまったく逆の方向を向いている。昨今の10代20代の「空気読めないとヤバい」感は加速する一方で、空気読める子は読める子、ちょっと読めない子はちょっと読めない子、かなり読めない子はかなり読めない子同士のグループに非常に細かく分断されて、生い立ちや好みなどがさらにそのグループを細分化して、それぞれに排除と孤立を生み出しているように感じてならない。

SNSでは自分に近い属性同士で固まるだけ

 SNSをはじめとする、属性で細かく分断されてもコミュニティを形成できるツールがたくさんあるのは、そうとう空気読めなくてどこに属すればいいのかわからない子どもだった僕などにはうらやましくて仕方がないが、貧困報道に対する反応など見るかぎりそれは多様性を認める側ではなく、逆の自分に近い属性同士でそれぞれの論が先鋭化してしまっているだけのようにも感じる。

 こんな中で、社会そのもののダイバーシティがどうのこうの、政策や経済界レベルで話し合っても、今、そこで苦しんでいる貧困者にその効果が届くのはいつよ?という話だ。

 ならば、こうしたことをすべて考えたうえで、どうすればいいのだろうか? 貧困者支援に新たなアプローチはないものなのか。「発達支援的ケア」もたどり着いたひとつの案ではあるが、頼りない。次回、この連載は最終回として、これまでの貧困当事者への取材経験や僕自身の高次脳機能障害体験などから、より前向きな支援モデルを提言してみたいと思う。
https://goo.gl/1r53gj(情報源)

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